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2012.08.10

『早春 その他』

8月10日(金曜日)
 早いものでもう週末だ。
 昨日は早朝からの病院行きで、そして今日は24時間心電図センサー装着により、せっかくの休みなのにrunができないということで心電図データと一緒にフラストレーションも蓄積中。

         * * *

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 さて、昨日待ち時間活用により読んでしまった藤沢周平著「早春 その他」(文春文庫)。

 いくつかの短編の中に珍しく現代小説「早春」が収められている。その中で是非残しておきたいと直感したフレーズがあった。
 前後の脈絡を知らなければ意図も十分伝わらないとは思うが。

 そして、何と桶谷秀昭氏による巻末の「解説」で、全く同じ部分が引用され、解説されていたのだ。

(以下 本文より引用)
『父親の心には、ごく素朴な形で娘の無垢に対する祈念が隠されている。陳腐な思い入れと言ってしまえばそれまでのことだが、その思い入れが時に切実ないろを帯びるのは、無垢ということに親が幸福の持続を見るからであろう。
 そのとき親は、自分の羽根の下にいて幸福だった娘の姿を残像のように見ているのである。
 そして無垢がそこなわれることと不幸を結びつけようとする気持ちのありようは、いささか時代ばなれして迷信に似て来るにしても、娘を持つ父親の胸の底にある何事もなければいいというつぶやきは、決しておざなりのものではなかった。それはやはり、たえまない祈りというべきものだった。』

 そして、桶谷氏の解説は下記のように続ける。それが、ここ何年も自分が感じてきたこととシンクロするのである。本文を読む中ではそこに繋がるとはしっかりと自覚できてはいなかったのだが、「解説」を読んで合点するに至った。

(以下、解説より引用)
『ここに、この現代小説の動機があると同時に、この父親の祈りを実現する通路をどこにも見いだすことができないといふむなしさ、これまで生きていて、娘の幸福のために耐へてきたあらゆる辛抱が、水の泡になってしまふ、そのことにさらに耐へねばならないといふ現代的な主題が暗示されている。
 しかし何のためにであろうか。人はさういふ祈念を何のためにあきらめなければならないのであらうか。それは「陳腐な思い入れ」であり、「時代ばなれ」した「迷信」といふ現代の通念のためであらうか。
 いつたい、自由とか個人の独立といつた観念が自明の前提として横行し、そのために人が息苦しい状態の中で心から発する自然な祈念すら抑圧しなければならない現代とは何であらうか。いつ頃からわれわれはさういふ奇妙な状態に陥つたのか。---そんな声がこの小説の背後から、ひくいつぶやきとなつてきこえてくる。
 それはあくまでひくいつぶやきであつて、問題としてそれを解かうといふ声ではない。ひくいつぶやきは諦念へ傾いていくのである。』

 うん、言われてみれば激しく同意である。
 洋風の自由主義的意識の導入はある時期までをこの国を豊かな世界にするための原動力の一つになったのだろう。しかし、物事には負の側面が必ず付いてまわる。豊かさと同時に暗黒面も確かに、確実に蔓延して行った。
 この「早春」ではその暗黒面のうち、象徴的な部分をすこぶる具体的に例示、そしてそれにより発生している嘆かわしい部分を明確に暗示しているのだった。

 今、書店に平積みされている「それをお金で買いますか」(マイケル・サンデル著)も恐らくそれに繋がるようなことが書かれているのではないかと勝手に思っていて(NHKの番組での発言スタンスや本をペラペラとめくって見た感じから;;)、今度必ず読んでみようかと。

 自分の言葉で言ってみれば、「寅さん」や「Always三丁目の夕日」的な昭和ドラマ中に見られる日本人の本来持っている情感的なもの=とても大切なもの を何故捨てなければ発展して来られなかったかという静かな嘆き。

 少なくとも、50歳になる自分の世代にはまだ辛うじて、これを嘆く感覚が残っている(それが客観的に良い悪いは別にしても)。だから、先輩達、ちょっと安心してください、と言いたい。けれど、この先、間もなくそんな感覚さえ異次元に感じる人たちの社会になっていくのだと思います。この国は。

 それが、とても寂しい。

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