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2005.07.15

司馬遼太郎 1

 わけあって司馬遼太郎に関する本を2冊 並行して読んでいる。
 「司馬遼太郎が考えたこと1」(エッセイ集・新潮文庫)と「司馬遼太郎という人」(和田宏著・文春新書)。
 前者は司馬遼太郎が書き残したエッセイを年代を追って整理・収録したエッセイ集の第1編。戦場から引き揚げ新聞記者の道を歩み始めてから直木賞を受賞する頃までをまとめている。
 後者は30年近く編集者として司馬遼太郎の担当だった和田氏が、司馬氏の折々の名(迷)文句を軸にその背景などを想起し紹介する形で司馬遼太郎の人となりをあたたかくつづったもの。

 気になったエピソード等を取り上げてここで論じはじめるときりがないが、司馬遼太郎は大好きな作家の一人。自分の息子にも「遼」の1字を頂いたくらい(あ、「太」もだった)。・・・ということもあり、これを機会に折に触れて語っていきたい。

 今回は、司馬氏の性質について。
 とにかく謙虚なひとだったという。自己顕示欲やナルシシズムとは全く縁がないような。和田氏曰く、生まれついてそんな人間はいるわけがないので、日々よほどの負荷を自分に課していたか、日常的にそいういう訓練をしていたのではないか、という。それだけに、一方ではエラそうにする人、尊大にする人には病的なまでに敏感に反応する人だったらしい。
 また、少年のような純粋な驚きの心を持ち、それが思索や創作の原動力となっているらしいということ。彼がよくみせる最上級の形容句「日本史上例を見ない・・・」や「世界史でも希な・・・」などは少年の驚きの残響だ、と和田氏は語っている。

 よく分かる気がする。自分と比較するのはおこがましいの極みだが、自己が謙虚である分、他人の尊大が気になるという気持ちの構造は理解できるような気もする。自分は決して謙虚ではないが、人の「尊大振る舞い」や「尊大言葉尻」には比較的敏感なほうだと思うから。
 「少年の驚き」については、自分は(和田氏が)そこが起源という司馬遼太郎のダイナミックでおおらかな文体が大好きなこともあり、さもありなん、というのが正直な感想。

 心根の基本路線は遠くないことがわかり、妙に親近感がわき嬉しくなった。かくなる上は私も今後謙虚トレーニングに勤しみ、もっともっと司馬遼太郎の心の世界に近づきたい、とまでは言わないが、そういう人だったということをふまえて、彼の作品に付き合っていきたいと思ったことであった。

 ※司馬遼太郎の「リョウ」の字、本当はしんにょうの点が2つなのだが、パソコンでは点1つのしんにょうの「遼」でしかでてこないので、大変失礼とは思いますが、便宜的に「遼」を使わせていただいています。

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コメント

久米田です。
木曜日の同窓会のときは大変お世話になりました。
ブログ見ました。更新がすごくされているのでざっと見た程度ですが。
母べい。私も知り合いに誘われて土曜日に見ました。前の夜に3時間くらいしか寝てなかったので、途中で眠ってしまうかなと思いましたが、当然寝る隙なんてなくて。組織とか世の中の流れとかに流されないように、しっかりと生きなければと思わせられた作品でした。
今年は、石狩で農作業をしっかり勉強しようと思っています。またメールします。それでは失礼します。

投稿: 久米田真人 | 2008.02.06 00:53

>くめくん
コメントありがとう!
フルネーム出しちゃって、支障ない?リクエストあればニックネームに変えておきますよ。
先日は夜中までありがとうでした。実に楽しい時間だったね。また尺八や菜園で盛りあがりましょう!

投稿: NAOMI | 2008.02.09 11:26

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