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2005.07.16

シリーズ「日本語の使い方」5

 今日の長距離RUN後の計量でついに60kgを切ったことが判明。十数年前にRUNを始めてからも恐らく50kg台まで落としたのは今回が初めてだ。絞りすぎてもスタミナが落ちる傾向があるので要注意。ビホロに向けてスタミナ調整は必須科目だ。もっとメシ食わねば・・。

     * * *

 ここ1年ほどの間に、巷では日本語の使い方に対する関心が高くなっているのか、関連本が出版されたりテレビ番組でもそれをテーマにしたものが放送されているらしい。これは見たことが無いのだが。
 新聞等の投稿欄でも主に中高年者からの「日本語の乱れ」に関する意見をしばしば目にすることが多くなった。

 「正しい日本語」を語ることがブームになっているのか、本当に危機感を持っている人たちが増えているのかはわからない。議論されること自体は悪いことではないので、これが一過性で終わらず、本当に正しく美しい日本語が普通に平均的に使われることになるまで絶えることなく継続してほしいものだ。

 自分の場合は、危機感をもっている、というほどのものではない。というとちょっと違うか。とにかく嫌悪感が先に立つのである。とりあえずどうでもいいから俺の前ではその言い回しはやめてくれ、という感じ。
 だから、一般的に「危機感」の対象となっているような言い回しでも、自分としてOKなら全然かまわない。極めて我が儘な日本語フリークなのだ。

 例えば、つい先般、文科省だかどこだかで行ったとしてメディアに載っていたが(良い例としてか悪い例としてかまでは深く読んでいなかった)、「微妙」は自分としては全然かまわないしむしろ曖昧さを表すとても便利な言葉として有効に活用させていただいている。
 対して 「ウザイ」は絶対駄目。生理的に受け付けない。嫌悪感を通り越して吐き気がしてくる。おそらく、だが、昨日の話題でも取り上げた「エラそうにする人」感の最上級が「ウザイ」の裏に隠れているという気がするからなのではないか、と自己分析してみるのだが。端的に表現すれば、「ウザイ」を使える者が仮にいるとすればそれは神様だけ、ということだ。お前ごときが人を(見下した)評価するに値する人生を生きているのか、ということである。
 
 ところが、日本語の使い方 で大きなジレンマが生じてしまった。
 以前も「シリーズ『日本語の使い方』2」等で何回か取り上げた「おられる誤用」。これをなんと尊敬する司馬遼太郎氏が普通に使っているのである。エッセイの中でしばしば出てくる。だからかどうか知らないが、「司馬遼太郎という人」を書いている和田宏氏も使用している。
 余談だが、意識してか無意識のうちなのか30年司馬遼太郎と付き合ったという和田氏の文体、文章の雰囲気が司馬氏のそれにそっくりなのには笑ってしまった。

 話しを戻す。そこで私はしばし固まってしまい、さあ、自分としてこれはどんなスタンスをとるべきか考え込んだ。司馬遼太郎はものの表現の仕方や言い回しには非常に繊細な神経を使ったかどうかは判らないが、とにかく一度書いた文章の添削・校正には色鉛筆を何色も使い、余白を埋め尽くすほど、という人だったという。
 文章や言葉の使い方というものにそれほどナーバスな人が、「おられる」を普通に使っている。これは自分にとっては大問題である。

 で、決断。
 この件は譲れない。
 弘法も筆の誤りということもある。魔が差したということも。司馬遼太郎がいかに偉大な師匠といえど、自分の中の「日本語用法」に関する物差しは変えることはできない。自分に嘘をついてもしかたがない。こと「おられる」に対するスタンスは。
 会社の人間が「おられる」を使ったときの嫌悪感は、司馬遼太郎がもし生きていて、直接、「そんなこと、どうでもええやろ」とおっしゃってくれたとしても多分、自分の中から消し去ることは出来ないのではないかと思うからである。
 まあ、これも病気と言えば病気なのかも知れない。

 「おる」、は謙譲。相手に対してへりくだることば。相手に対して「・・しておられる」は、自分の中では絶対にあり得ないのだ。司馬遼太郎を尊敬するしないとは、別の次元として考えたい。

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